パパジ「覚醒の炎」を読んで

2018年6月

7月にニーラジャさんのもとイタリアでの瞑想ツアーの参加します。

 

 

その勉強(予習)のために彼女の師であるパパジの本「覚醒の炎」を読んでいます。

 

 

とても気付かされることが多い本で、今までの固まっていた概念が良い意味で崩されています。

 

特に、ヨガだとサマーディに至るために瞑想やアーサナ含め色々な修行をすることを勧められます。
しかし、そのサマーディを求めること自体が罠だと言います。
一時的にサマーディに入ったとしても、それが終わればその至福の状態は終わってしまう。
そんな一時的な体験というものは心の罠にすぎません。

 

 

 

 

永遠の状態は来ることも去ることもない。
それこそが「自由」であり「至福」だと言います。

 

 

 

 

バイオダイナミクスやエソテリックヒーリングを学んでいて、その体験を意気揚々と話す方がいます。
私にはそれが疑問でした。
私自身がそんな話せるような体験をしたことがないことと、本当にそんなことが起こっているのかという疑念もあるからです。

 

結局のところ、その場に行って、その人に会ってでないとその体験はできないということなのです。
一時的な体験に果たして意味はあるのでしょうか。
一つの答えを貰えたような気がします。

 

 

 

この本を読んで、毎日の瞑想の在り方や施術するときの心構えがまた少し変わりました。
ただ心を静かにしていればいい。

 

 

私は瞑想やアーサナも目的を持って臨んでいました。
しかし、それ自体も罠だということですね。

 

これらを踏まえてジムジェラスD.Oのバイオダイナミクスのテキストを読んでみると、また深く深く伝えたいことが読み取れる気がします。

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